活花は日本独特のものですが、活花らしい形ができかかったのは奈良朝時代からで、それまでは単に仏花としてのみ行われたのに過ぎません。
奈良朝時代になって文学の発達と共にその文学的な影響が表われ今までの仏花に変化を与へてきました。
平安朝時代12世紀末文学的活花の発展は平安朝時代において急に日本独自のものとなった時代で花の形式を与えるようになりました。
仏教的な供華から情景を活花の上に表現し文学的に進んできました。
室町時代、足利義政公が銀閣寺を建立されて、茶道華道香道と云ったものがおこなわれ、鎌倉には立阿弥洛中に池坊専慶があって挿花を発展させました。
豊臣時代となって、豊臣秀吉が天下を平定してから、聚楽第・大阪城・桃山城・三宝院など華美な建築が出来、活花も大瓶の投入立華など行われた一方には、千利久、宗旦などの茶道の大家が出て、茶室の活花として発達しました。この時代の代表とするのが池坊13世専好で最も傑出した人でありました。14世専好におよんで華道の歴史ははなやかに展開されました。
日本の活花美術史では、この江戸時代がかなり重大な役目を持つもので、この時代の長足の進歩を遂げています。江戸時代は前期(元禄以前)中期(明和を中心とするもの)後期(文化文政)の三期に分けて考えますと、前期は桃山時代の影響が濃厚で、立華投入が主なものです。当時の立華の形式には、池坊に六角堂池坊、大往院似信、安立坊周玉がいて、吹き分け、立て分け、かたくずれなど、寛永から元禄までおよそ25種の出版や写生が残されています。
享保から寛政頃まで、明和、安永を中心とする時代で活花が民衆を中心として江戸、京都、大阪で盛となり、諸流が発展し形式も次第に整ってきました。この頃では、古流、青山流、真古流、吉田流、松月堂古流、遠州流、東山流、八代流、相阿弥流、宏道流、石州流、美笑流など多くの流派が生じたのでありますが、これら流儀は、茶の流儀から出たものが多く純粋な生花の流儀となったのは、明和安永の時代になります。この頃出版されました書を見ても10種ばかりは、立華その他は生花(投入花)のものであるのを見てもわかります。
文化文政時代より彩りの美しさは、無視されて美しい線だけが追求されてきました。更に形式の意味づけが各派によって天地人とか真副体、体用留とかの花矩を作り中期頃までの投入花風な活花が中期末頃には立華も半月形と変り古い形式が江戸中頃に完成したとはいえ江戸末期になって半月、三角形に整ってきました。
明治のいけ花は、大体江戸時代の諸流をそのまま受ついだのに、過ぎないのですが、大正時代になり数多くの分流を見て盛んになり、その勢いに乗じて花道界を支配するようになりました。さらに昭和の初期となり、自然調の自由花が新しいいけ花として人気を博しました。その後絵画、彫刻、装飾オブジェ等の影響を受けて発達し近代現代華の誕生を見ました。
同時に古典としての立華、生花も、又よろこばれて現代ではいけ花の専門紙も多数あり、いろいろな流儀や会で大きな花展も開催され同時に審査も行なわれるようになりました。
今後、いけ花がどのような形式をふみ、進歩して行くかはわかりませんが、花道を心ざす人にとっては、大きな課題でもあり楽しみでもあります。